「どうしてそう考えるの?」
「なんで分かってくれないの?」
家族や職場、友人との会話で、そんなふうに感じたことはないでしょうか。
同じ出来事を見ているはずなのに、
受け止め方がまったく違う。
同じ言葉を聞いているのに、
話が噛み合わない。
そんな経験は誰にでもあります。
でも、それはどちらかが間違っているからではなく、
見ている”心の地図”が違うから
なのかもしれません。
「知っている」と「理解している」は違う

以前の記事では、
愛とは「与えること」であり、
また「関心を向けること」であると述べました。
今回はさらに、愛とは、
理解すること
という観点から考えてみたいと思います
そもそも「知っていること」と
「理解していること」は違います。
長く一緒に暮らし、相手の次の言動が手に取るように分かる関係であったとしても、
「なぜそうするのか」はさっぱり分からない、という場合もあるでしょう。
それは、互いの見つめている世界が違うからなのかもしれません。
人はそれぞれ違う景色を見ている

子どもと大人では、見えているものが違います。
同じケーキ屋さんへ行っても、
子どもはいつもケーキばかりを見て
親は常に“値段”を見ています。
スーパーでも、例えば、
夫は価格を見て、
妻は賞味期限を見る。
同じ場所にいても、
見ているものは異なるのです。
家庭でも同じです。
例えば、仕事から帰ってきた夫(妻)は、
「なんで部屋が散らかっているんだ」
と思うかもしれません。
一方、
一日中、家事・育児に追われていた妻は、
「どうしてもっと早く帰ってきて手伝ってくれないの?」
と思うことでしょう。
どちらも、
自分の立っている場所から世界を見つめる――。
そのため、
互いの見える景色が異なるのです。
すれ違いは、心の地図の違いから生まれる

ある自己啓発の講座では、
人間関係のすれ違いを
「心の地図」
という言葉で説明していました。
もし二人が、
違う地図を見ながら電話をしていたらどうなるでしょう。
「そこを右に曲がれば郵便局だよ!」
「いや、そこは牛丼屋だけど?」
どちらも嘘をついているわけではありません。
見ている地図が違うだけです。
人も同じです。
私たちは、
これまでの経験、
育った家庭、
成功や失敗、
傷ついた出来事、
価値観や信念。
そうした積み重ねによって、
一人ひとり違う”心の地図”を持っています。
だから、
同じ言葉でも、
同じ出来事でも、
受け止め方が変わるのです。
理解とは「相手のバス停」に行くこと

別の研修では、
こんな例えも紹介されていました。
互いに違うバス停で待っていて、
「こっちへ来て!」
と呼び続けているようなものだ、と。
でも、
本当に会いたいなら、
相手を自分の場所へ呼ぶつけるより、
自分が相手のバス停まで行った方が早い
のです。
理解とは、
「自分の考えを分かってもらうこと」
ではありません。
相手が今、どこに立っているのかを知ろうとすること
なのです。
トマスは本当に「疑い深い人」だったのか

聖書には、
「疑い深いトマス」
として知られる弟子が登場します。
復活したイエス様を見た弟子たちが、
「主は生きておられる!」
と語っても、
その場に居合わせなかったトマスは言いました。
その手の釘あとを見、この指を釘あとにさし入れ、また、手をそのわきにさし入れてみなければ、わたしは決して信じない。
(ヨハネによる福音書20章25節)
この言葉だけを見ると、
頑固で疑い深い人物のように思えます。
でも、
トマスの歩みをたどると、
別の姿が見えてきます。
彼は、
危険な場所へ向かうイエス様に対して、
「私たちも行って、一緒に死のうではないか」
と言ったほど、
忠実で情熱的な弟子でした。
また、
分からないことを分かったふりをせず、
率直に質問する人でもありました。
つまり、
彼は「信じたくない人」ではなく、
あまりにも深く愛していたからこそ、簡単には信じられなかった人
だったのです。
イエス様が訪ねられた場所

それから八日後、
イエス様は再び弟子たちの前に現れます。
そして、
トマスが以前語ったそのままの言葉で、
こう言われました。
あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわきにさし入れてみなさい。
(ヨハネによる福音書20章27節)
イエス様は、
トマスを責めませんでした。
「どうして信じないのか」
とも言いませんでした。
イエス様は、
トマスの心が立ち止まっている場所まで来てくださった
のです。
トマスが抱えていた痛み。
十字架の悲しみ。
信じたいのに信じられない苦しみ。
その場所を理解し、
そこからもう一度歩き出せるように導かれました。
するとトマスは、
ただ一言、
「わが主よ、わが神よ。」
と告白します。
理解された時、
人の心は開かれるのです。
相手の心の地図を歩いてみる

私たちも、
家族や身近な人に対して、
「どうして分からないの?」
と思うことがあります。
でも、
その前に一度立ち止まって、
考えてみたいのです。
相手には、
相手の地図があります。
私の知らない痛みがあり
相手が今立ち止まっている場所があるのです。
理解とは、
単に相手に同調することではありません。
また、何でも受け入れることでもないでしょう。
ただ、
相手が見ている景色を共に見ようとすること。
相手の心の地図をたどり、相手が立っている場所まで訪ねていくこと。
そこから、本当の対話が始まるのです。
今日、
「どうして分かってくれないの?」
と思う相手がいるなら、
その人の心の地図をたどり、
彼・彼女が立っている場所まで訪ねてみませんか。
理解しようと努めるそうした心に、人は“愛”を感じるのかもしれません。
聖書のことば
あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
(ヨハネによる福音書20章27節)
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ブログの感想
傷があるトマスを理解し、まるでトマスの為に傷を残して復活されたかのように思えました。そのようなやさしさと相手への理解を持ちたいです。
相手の立場に立つことの大切さ、相手の立っている立ち位置まで訪ねていくことの大切さを知りました。
人は皆、異なる地図を持っていて、それぞれの経験や痛み、不安や願いによって「見えている世界が違う」という言葉に、ハッとさせられました。

