私は人からどう見られているのだろうか。
私たちは、思っている以上に、自分のことを気にしながら生きています。
写真を撮れば、まず気になるのは自分の写り方。
誰かが自分の名前を口にすれば、自然と耳が向いてしまう。
でも、だからといって、
自分のことをよく分かっているわけではありません。
人から褒められれば「自分はできる人間なのだ」と舞い上がり、
人から否定されれば「自分はダメな人間なんだ」と思い込んでしまう。
でも本来、私たちの価値は、人の評価で決まるものではありません。
大切なことは、
自分が自分自身をどう見つめているか
にあると思うのです。
人の評価に揺れる私たち

私たちは日々、いろいろな評価の中で生きています。
学校では成績で評価されます。
会社では成果で評価されます。
スポーツでは勝ち負けがあり、仕事にも結果があります。
もちろん、評価そのものが悪いわけではありません。
自分の課題を知り、成長するために、人からの意見や評価は必要でしょう。
しかし問題は、
評価がそのまま「自分の価値」になってしまうこと
です。
人から認められた日は、自分に価値があるように感じる。
でも、批判された日には、自分そのものが否定されたように感じてしまう。
人の評価に心が大きく揺れてしまうこともあるでしょう。
自分に貼られる「評価シール」

夕方のスーパーに行くと、お弁当やお惣菜に値引きシールが貼られています。
「30%引き」
「半額」
「見切り品」
生活の中ではありがたいシールですが、もし人間にそんなシールが貼られるとしたらどうでしょうか。
私たちは日々、まるでいろいろな評価シールを貼られているように感じることがあります。
- よくできた人
- 期待される人
- 役に立つ人
- 失敗した人
- もう見込みがない人
けれど、人の価値はスーパーの商品とは違います。
仕事の結果や、周囲の反応によって、値段が上がったり下がったりするものではありません。
他人が貼った評価シールが、あなたの本当の価値を決めるわけではないのです。
自己肯定感とは何か

最近、「自己肯定感」という言葉をよく聞くようになりました。
自己肯定感とは、
自分には価値がある
自分は大切な存在である
と感じられる心の土台のようなものです。
自己肯定感が低くなると、
「人の評価=自分の価値」
になってしまいます。
SNSの「いいね」の数で気分が上下したり、
人からの一言で大きく落ち込んだりするのも、その一つでしょう。
反対に、自己肯定感が高い人は、、
自分の存在価値を、人の評価だけに預けない
のです。
ただし、ここで大切なのは、単に「自信を持とう」という話ではありません。
「自分はできる」
「自分はすごい」
という感覚も大事ですが、それ以上に深いところにあるのは、
何かができても、できなくても、私という存在そのものに価値がある
という感覚です。
存在そのものに価値がある

生まれたばかりの赤ちゃんを思い浮かべてみてください。
赤ちゃんは働けません。
家事もできません。
夜泣きもします。
おむつも替えてもらわなければなりません。
でも、その赤ちゃんを抱いた親は、
「この子は何もできないから価値がない」
とは思いません。
生まれてきてくれただけで嬉しい。
名前を呼ぶだけで胸がいっぱいになる。
息をしているだけで、かけがえのない存在です。
もちろん成長すれば、親は期待もします。
立派に育ってほしい。
良い人生を歩んでほしい。
そう願います。
しかしその根底にあるのは、
「できるから愛する」
「優秀だから価値がある」
というものではありません。
その子がその子であること。
ただ存在していること。
そこに、すでに価値があるのです。
それはまさに、
値札のない価値
と言えるのではないでしょうか。
値段のつかない一羽のすずめ

聖書には、神様から見た人の価値について語られている箇所があります。
イエス様はこう言われました。
五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみ前で忘れられてはいない。
(ルカによる福音書12章6節)
当時、すずめは市場でとても安く売られていました。
マタイによる福音書では「二羽で一アサリオン」とあります。
それなら二アサリオンでは四羽のはずです。
ところがルカによる福音書では、
「二アサリオンで五羽」
と語られています。
つまり、五羽目のすずめは、まるで“おまけ”のような存在だったのかもしれません。
値段もつかない一羽。
いてもいなくても変わらないように扱われる一羽。
けれどイエス様は言われます。
その一羽も神のみ前で忘れられてはいない。
人の市場では値がつかなくても、
神様の前では忘れられていない。
ここに、神様が命を見るまなざしがあります。
あなたは神様に覚えられている

イエス様はさらにこう続けられました。
あなたがたは、多くのすずめよりも、まさった者である。
(ルカによる福音書12章7節)
つまり、
取るに足りないように見えるすずめ一羽さえ、神様は忘れない。
まして、あなたを忘れるはずがない。
そう語っておられるのです。
私たちは時に、
「自分なんて、いてもいなくても同じだ」
「代わりはいくらでもいる」
「誰も自分を見てくれていない」
と感じることがあります。
でも、人が忘れても、神様は忘れません。
人が見過ごしても、神様は見過ごしません。
人が価値を認めなくても、神様はあなたを覚えておられます。
聖書はさらにこう語ります。
あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
(ルカによる福音書12章7節)
これは、神様があなたを細部に至るまで知っておられる、という表現です。
あなたの価値も、可能性も、弱さも、痛みも、隠れた努力も、言葉にならない涙も。
神様はすべて知っておられるのです。
気づかなくても届いている愛

あるCMに、母と息子のお弁当の物語があります。
思春期になり、会話が少なくなった息子。
母は毎日、心を込めてお弁当を作り続けます。
それは、言葉にならないメッセージのようでした。
「ちゃんと食べてね」
「今日も頑張ってね」
「いつも見守っているよ」
息子は何も言いません。
それでも母は作り続けました。
そして最後の登校日。
返ってきたお弁当箱の中に、息子からの小さなメモが入っていました。
「ありがとう。いつも言えなくてごめん。」
息子が気づいても、気づかなくても。
返事をしても、しなくても。
母は変わらず、
「あなたは大切な存在だ」
というメッセージを送り続けていました。
親なる神様が私たちに送り続けてくださる愛も、きっとそれと同じなのだと思います。
神の目で自分を見つめる

日常の中で、私たちは人と比べられます。
批判を受けることもあります。
自分で自分を信じられなくなることもあります。
自分の価値まで見失いそうになることもあるでしょう。
でも、忘れないでいたいのです。
あなたを大切に思っている人がいます。
あなたが気づかなくても、見守り、祈り、支えてくれている人がいます。
そして何より、一羽のすずめさえ忘れない神様が、あなたを忘れるはずがありません。
アライメントとは、神様に心を向けることです。
そして同時に、
神様の目で自分自身を見つめ直すこと
でもあります。
神様が愛しておられる私を、私も愛する。
神様が信じておられる私を、私も信じる。
神様が見つめておられるまなざしで、もう一度自分を見つめ直す。
そこに、人の評価に左右されない、揺るぎない価値があります。
まとめ|あなたの価値に値札はない

人の評価は変わります。
環境も変わります。
できることも、できないこともあります。
けれど、あなたの存在そのものの価値は、値札のように上がったり下がったりするものではありません。
神様はあなたを覚えておられます。
あなたを知っておられます。
そして、あなたの価値を見失ってはおられません。
自分の価値が分からなくなる時、
もう一度、神様の視点に立ち返りましょう。
神様に立ち返る時、
それは同時に、
自分自身の本当の価値を発見する時
でもあるのです。
聖書のことば
五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみ前で忘れられてはいない。あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れるな。あなたがたは、多くのすずめよりもまさった者である。
(ルカによる福音書12章6〜7節)
動画で観る
このブログのメッセージを、YouTubeで配信しています。ぜひご覧ください。
ブログの感想
心に火を灯すのは、神様。私はその頂いた火を大きくすることを心がけたいと思いました。
内的動機は長続きする、外的動機は長続きしない、というのが印象に残りました。
力を失いそうになる時、神様が私たち人類の復帰を諦めず、日々、導いて下さっておられることを思い返し、内的動機をしっかりと持っていきたいと思います。

